シリアスかつカジュアルに「死にたい」と口にする人は、でも、「死ぬのちょーたのしみーッ! 死にたくて死にたくてたまんない! どうやって死のうか迷っちゃうなー! あー早く死にたい!」という感じにはあんまりならない。

だいたいの場合「死にたい」は皮をはいでいくと「もっと楽しく生きたい」「もっと充実感をもって生きたい」になる。

「もっと楽しく生きたい」→ だけどそれは自分には無理ぽい → だったら「死にたい」、そういうことだと思うんだけど、これが感情の加工です。

出だしから「死にたい」だったら「死ぬのちょーたのしみーッ!」ってなるはずなんだよね。

そうならないってのは、欲望と直結してないってことで、それはつまり加工された感情ってことです。

「死にたい」という人には加工のプロセスが当たり前すぎて、自分でも気づかないくらいになってるけど、そういう形で発露された感情はいろいろめんどくさいことになります。だってホントは違うんだもん。

「死にたい」といわれて「じゃあ死ねば?」といっても「がんばって生きて!」といってもだいたい「わかってない」ってことになる。そして当人はますます孤独を深める。そりゃそうだ。だってその話法自体が孤独を深めるための話法だもん。

「死にたい」というところを「もっと楽しく生きたい」と言ってくれたら。加工しないでそのまま出してくれたら。

当人だって自分がどうしたらいいかわかりやすくなると思うし、もう少し人とつながりやすくなると思うんよね。